真宗大谷派 浄円寺
4
宅配プチ説法 浄円寺コラム<4> 2020,5,30重共聡
城端城の本尊
「ここの本尊は、城端城主が代々護ってこられたのを、寄進していただいたものです。」
「えぇ?!」
その日、詳(くわ)しく言えば平成19年4月13日。
真宗の教えを仰(あお)いでいる櫟暁(いちいさとる)師が鹿児島から出てこられるのに合わせて、僕は富山から上京した。そして先生に随行(ずいこう)して四カ所目に訪れた聞法会場がそのお寺で、自分はその時が初めてだった。
本堂で聞法の常連の女性と言葉を交わしていると、80才前後と思われる前住職が入ってきた。
そこでその女性が僕を紹介した。
「彼は、富山県から来たんですよ。」
すると開口一番発せられたのが冒頭の言葉だった。
「ここにある本尊は、富山県の城端城主の家に代々伝わっていたものです。」
城端(じょうはな)というのは僕の生まれ育った町のことで、蓮如上人が開基(かいき;新しく作った人)した善徳寺(ぜんとくじ)という真宗のお寺を中心に栄えた門前町なのだが、お城についてはあったことすら知らなかった。
しかも、その日訪れたお寺の開基は富山県井波町の一般家庭出身の前住職で、今は二代目にあたる息子さんが継いでいるという。
前住職によると、
「城端城主の子孫の方が、富山県から上尾に引っ越して来られ、真宗の寺を探していた時、たまたまうちを見つけられたのが御縁です。その後、横浜へ越されることになり、維持していくのが大変なので、引き取ってもらえないかというお話があり、引き取らせていただくことにしました。その時は厨子(ずし;仏像を安置する堂の形をした入れ物)に入っていたのですが、触れるとポロっと崩れるほど痛みが激しかったので京都で修復してもらい、本堂を新築したのを機に本尊として正面に安置しました。」
「城端城の末裔(まつえい)は何という方ですか?」
と聞くと、
「あそこに書いてあります。」
と、壁にかかった大きな額を指された。
そこにはお寺に寄進した門徒の人達の名前が並んでいて、その筆頭に、
『本尊寄進 荒木和夫』
とあった。
前住職の奥さんが、
「仏様は、とってもいいお顔をしておられるんですよ。」
と言うので、帰り際もう一度本堂へ足を運び、近づいてじっくり見てみると、こちらの気持ちが癒(いや)されるほどいい表情だった。
意外なことに、何年も前から講師として来ている櫟先生も、本尊の由来を耳にしたのは初めてだと言っていた。
たまたま訪れたお寺。
そのお寺の本尊と、開基である前住職は自分の生まれ故郷と深いつながりがあった。それはどう考えても、見えない力がはたらいて僕を引き合わせてくれたとしか言いよ
うのない出遇いだった。
そして思った。
「城端に戻っても、このことは自分一人の胸にしまっておこう…。」
あれから13年、もうそろそろいいんじゃないかと思う。
そのお寺を照誠寺という。
プチ説法
貸与物件 1996春
「これは…」
渡されたコピーを読んだ時、絶句してしまった。
連休を利用して帰省した富山の実家で、母が、
「これ、ヤーチの息子さんが書いた文の一部なんやけど、あまりにいいこと書いてあるから、コピーしてもらってきたが。」
と言って一枚の紙片を見せてくれた。
ヤーチというのは愛称で、本名は谷敷(やしき)さん。母の女学校時代の親友で、クラスではいつも一番の優等生だったという。
その屋敷さんに完詞(かんじ)さんという一人息子がいた。
彼は地元の大学を出て、しばらくサラリーマンをやった後、脱サラしてスーパーマーケットを始めた。
ところが、結婚して商売が軌道に乗り始めたころ、目の前に大手のスーパーが進出してきた。
そのため、やむなく店を居酒屋に切り替えたのが、7~8年前。
調理師の資格を取って、常連のお客さんに新しい料理を教えてもらったりしながらメニューを増やしていき、この商売で何とかやっていけるメドがたってきた。
そして、これからという昨年(平成7年)の秋、突然の腹痛に見舞われた。
検査の結果は、肝臓ガンだった。
その事実を知らされることなく、今年の春40代の若さで奥さんと子供二人を残して亡くなった。
闘病生活を送っている間、病院のベッドの上でワープロに向かっていたのだという。
原稿は、完詞さん亡きあと、母親である谷敷さんが保管していた。
この一語一語に込められている心境に、自分は到底到達できそうにないと思った。
『貸与物件』
お貸しくださいましたこの体を、お返しし、
その体にお貸しくださいました、全ての物と思いも、
お返し致します。
私が貸した物と思いを受け継ぐ者が居る限り
何時(いつ)までも未練たらしく同じ浮世に永らえていることは
無駄という思し召しを賜り、
ご指示の如く、新たなる旅に発ちます。
同じ浮世に出直せとのことでありますならば
喜んで生まれ変わりましょう。
また六道(※)の如何なる世界に転生(※)しますとも
それが最も自然の行く先であるのでしょうから
夢ゆめ不満に思うことは有りません。
さて、次にお貸しくださるものは、何でしょう。
私は誰かと溶けあって、誰かの一部になるか、
誰かが私に溶け込んで
私の一部になるのでしょう。
だから、余り私にかかわっていても
何にもならないわけですね。
この世では、私はそれが分からなくて、何時も
「私は、どうなる。」
「私にとって、どうなのか。」
ばかりを気にしていたことが、馬鹿らしく
思われるようになりました。
全てのものが私で、私もまた、全てのもの
なのだということに気が付きました。
※六道…仏教で天上界、人間界、地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界の六つの世界をいう。
※転生…生まれ変わること。
<連載企画>
医療・介護の世界に足を踏み入れて
第一部 大東医専物語
あいさつ
クラスの平均年齢は23才。それでも高い方だということだった。
一番上が46才のクラス委員長弦弓さん。次が43才、拓大柔道部出身の吉満さん。その次が39才の自分で、その下が柔道ジュニアオリンピック金メダル、K県警柔道師範だった戸田さんだ。教卓のまん前になった僕の席の隣りには、19才の元高校球児で諏訪出身の木村君がいた。
約60名中、東海大、日大、世田谷学園などの柔道名門校で腕を鳴らした有段者が10名余り、30歳以上が一割、女子は接骨院の子女2名というクラス構成だった。
意外だったのは柔道未経験者が半数以上で、いかにも世相を反映しているなと思った。
授業が始まって、あることが気になってきた。
授業の前後に号令係が『気をつけ』『礼』をかけるのだが、みんな黙々と頭を下げているだけなのだ。これが普通なのかなとも思ったのだが…
というのは、塾をやっていた時は授業の始めに、
「お願いします!」
終了時に、
「有難うございました!」
という挨拶を徹底していたし、声が小さいと何回もやり直しさせていたからだ。
三~四日考えた末、やはり自分としては声を出してあいさつしないと納得出来ないという結論に達し、翌日から実行に移すことにした。
案の定、自分一人で『合いの手』を入れているようで何だか馬鹿みたいだったが、一週間たつうちに、つられて何人か声を出してくれるようになった。
翌年になると、新たに加わった留年組が五人最前列に陣取り、元気よく合わせてくれたので、あいさつが非常に活気づいてきた。
二年後期から授業を担当した牧内教務主任(ガイダンスで出席カードを見せ苦言を呈した先生)に、
「このクラスは授業の前後に声を出してくれて気持ちがいいね。このいい習慣をずっと続けてください。」
と言われた時は、今までの苦労が認められたようでうれしかった。 (つづく)
[次号6月13日]